2024年の日本ワイン動向を探る【前編】日本ワインブームを振り返って

近年、日本ワインはブームといえる状況にありました。ザ・セラー虎ノ門本店は、”カーヴ・ド・リラックス”の名だった頃からいち早く日本ワインを取り扱い始めたワインショップです。今回は、日本ワインの発掘や販売に尽力する立場から、2024年の日本ワインの注目すべき動きについて、同店の統括マネージャー・人見裕介さんに話を聞きました。

Profile
人見裕介
(株)カーヴ・ド・リラックス統括マネージャー/2005年、カーヴ・ド・リラックスに入社。日本ワイン担当バイヤーを経て、統括マネージャーに。現在はザ・セラーの全店舗をマネジメントしながら、日本ワインを盛り上げる活動も引き続き行っている。
https://www.cavederelax.com/blogs/staff-introduction

目次

2000年〜2005年:本格的なワイン造りに立ちはだかる壁

カーヴ・ド・リラックスの人見さん。

――2024年の動向を探る前に、この20年を振り返りたいと思います。日本のワインを扱い始めた当初は、どんな状況だったんですか?

カーヴ・ド・リラックスは1999年に開店して、2002年に日本のワインを販売しはじめました。当時は日本のワイン造りは黎明期で、自分たちでブドウを栽培してワインを造っているワイナリーは多くありません。一部のワイナリーは海外の輸入原料を使って砂糖をたくさん入れて甘いワインを造っていたところもあります。ですから、日本のワインは”お土産ワインと思われていた頃です。しかし、ごく一部の生産者が本格的な辛口ワインを造っていて、私達はそこに注目していました。

――当時の日本は赤ワインブームでした。ワインの需要はそれなりにあったのに、日本で本格的なワイン造りがされなかったのはなぜですか?

まずワインを造るための法律が十分に整備されていなかったんです。日本の場合、ワインの醸造も日本酒の醸造技術が基準になっていました。例えば、甲州の白ワインの醸造段階で果汁をタンクで受けるとき、海外だとドライアイスを入れて冷たい温度を保って、果汁の酸化を防ぎますよね。でも、当時の日本ではドライアイス(炭酸ガス)は添加物扱いでNGだったんです。

――それだとフレッシュな白ワインは造れませんよね?

はい。どこか酸化したようなワインになるので、そのままだとおいしく感じられません。それをごまかすために砂糖を入れて甘いワインに仕立てていたんです。

――法律的な壁があって、生産者も苦労していたんですね。

はい、本格的な辛口のワインを造るというのが本当に難しかったんです。それでも生産者はさまざまな役所関係にかけあったりして、問題を1つずつクリアにしていった。そのおかげで2005年頃になって、ようやく世界基準のワインが造れるだけの土台が整いました。

2005年〜2015年:本格的なワイン造りがスタート

カーヴ・ド・リラックスは2007年にリニューアルし、壁一面が日本ワインの棚に。当時としては思い切った店づくりだった。

――現代日本ワインの父と呼ばれる麻井宇介さんが活躍されて、ウスケボーイズの3人が登場したのも、その頃でしょうか?

麻井宇介さんはメルシャンのワイン醸造部門の責任者を務めた方です。メルシャンの功績は自社の利益だけを考えず、技術をオープンにしたことです。メルシャンはスタッフを海外で研修させ、それをもとに日本に合った醸造技術を生み出し、それを全部開示したんです。その技術や思いを汲み取ったのが、ボーペイサージュの岡本英治さん、Kidoワイナリーの城戸亜紀人さん、小布施ワイナリーの曽我彰彦さんのウスケボーイズでした。

――カーヴ・ド・リラックス創業者の内藤邦夫さんもメルシャンのご出身ですよね?

はい。内藤もウスケボーイズを名乗っていました。醸造ではなく小売のウスケボーイズですね。それもあって、カーヴ・ド・リラックスで日本ワインを応援したいという意味がありました。

――2005年以降、日本ワインの醸造技術が上がって売れるようになっていましたか?

2007年にカーヴ・ド・リラックスがリニューアルしたとき、私が日本ワインの担当となって、入口の一番いいスペースを日本ワインの棚にしました。でも、まったく売れていませんでした(苦笑)

――当時は何が売れていましたか?

世間は赤ワインブームの名残りで、濃いワインが売れていましたね。うちの店でいうと元々、ブルゴーニュが強かったので、売上のカテゴリトップはブルゴーニュでした。当時、ブルゴーニュ・ルージュは1,000円台で買えたので、安かったんですよ。それにくらべると日本のワインは2,000〜3,000円はする。だから日本ワインは「味も香りもないし、高いんでしょ」と思われていた。甘いワインのイメージが残っている人もいたと思います。

2015年〜2020年:日本ワインブームが到来

左から『BRUTUS』2015年10月15日号(出典:マガジンハウス)、『dancyu』2015年12月号、2017年12月号(いずれも出典:プレジデント社)

――2015年くらいから日本ワインは注目されて、のちにブームになると思います。大きなきっかけは何だったのですか?

2010年頃のウスケボーイズの登場あたりから、彼らの影響もあって日本ワインは全体にクオリティが上がっていきました。そのなかで、ブームの大きなきっかけになったのは、『dancyu』や『BRUTUS』の一般の雑誌に取り上げられたことだと思います。

――調べてみたところ、2015年10月15日号『BRUTUS』の特集が「世界に挑戦できる、日本ワインを探せ!」でした。すぐに2015年12月号『dancyu』の特集「あしたのワイン」で世界のワインをおさえて日本ワインが最初に紹介されています。2017年12月号『dancyu』は特集「日本のワインとチーズ」で日本ワインがメインとして登場していました。

ブームになるには、一般の層にどれだけ働きかけられるかがポイントです。その点で雑誌などメディアの力は大きいですよね。ウスケボーイズにもコアなファンはいましたが、それだけでは大きな購買力にはつながりませんので。一部のワイナリーでは日本ワインを有名ソムリエに取り上げてもらって、彼らからの発信で街場のソムリエや飲食店に広めてもらう取り組みをしていました。

のちに生産者になる人に衝撃を与えたナカザワヴィンヤードのクリサワブラン。

――その後は昔からあるワイナリーや大手ワイナリーだけでなく、個人で新規就農した生産者も登場しましたよね?

ウスケボーイズの後、ドメーヌ・タカヒコの曽我貴彦さんナカザワヴィンヤードの中澤一行さんらが北海道に移住して新規就農してワイン造りをスタートさせました。それを見て「日本でもこんなワインが造れるんだ」と感動して、個人でワインを造り始める生産者が登場しました。ナカザワヴィンヤードのクリサワブランに衝撃を受けて北海道に移住したという話は、本当によく聞きます。

――長野と北海道で個人の生産者が相次いで登場しましたね?

北海道ではブルース(・ガットラヴ)が10Rワイナリーで委託醸造を目的としてワイナリーを整備しました。ここでは元々のブドウ農家や新規のブドウ農家がワイナリーを設立する前に自分のブドウでワインを醸造する手助けがされています。長野ではヴィラデストワイナリーがアルカンヴィーニュを設立して千曲川ワインアカデミーをつくりしました。こうした動きもあって、長野と北海道に移住する人がいる一方、地元に帰ってワイン造りを始めた人もいます。

――行政もワイン特区を設置したり、移住する人のために地域おこし協力隊を募集する動きがありました。生産者が増えて、2018〜2020年はいよいよ日本ワインブームが到来しました。スター生産者のワインは買えなくなりましたし、新しくデビューする生産者にとても注目が集まったと思います。

小規模な生産者が日本ワインブームの中心でした。カーヴ・ド・リラックスでも小規模な生産者のワインを扱うために、かなりの数をテイスティングしました。ブームが起きて一般層にまで広がったのは、一番は生産者のがんばりですが、メディア、小売店、飲食店、行政といろいろな人が働きかけた結果だと思います。

数年前の日本ワインブームでは、それまでワインに興味がなかった人も巻き込み、個人の生産者への注目が集まり、盛り上がりを見せました。ブームが落ち着いた現在、店頭ではどんな動きがあるのでしょうか? 後半へ続きます!

ザ・セラー虎ノ門本店

東京都港区西新橋1-6-11
03-3595-3697
11:00〜20:00
無休(正月三が日を除く)

https://www.cavederelax.com

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この記事を書いた人

編集長のアバター 編集長 ライター/ワインエキスパート

東京に暮らす40代のライター/ワインエキスパート。
雑誌や書籍、Webメディアを中心に執筆中です。さまざまなジャンルの記事を執筆していますが、食にまつわる仕事が多く、ワインの連載や記事執筆、広告制作も行っています。東京ワインショップガイドは2017年から運営をスタートしました。

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